★2011 8・15反「靖国」行動へのよびかけ
3月11日に発生した東日本大震災とその後の大津波は、多くの死者・行方不明者を出した。そして、それに続く東電の福島原発事故は、この社会が自明のものとして突き進んできた戦後の経済成長至上主義の帰結を、悲惨なかたちであらためて露出させた。破壊された多くの人びとの生活は、一刻もはやく再建されなければならない。そのためには、全面的な補償と生活支援が必要なことは言うまでもない。被災者が 生きてきた場所である被災地の復興が、切実な願いであることは確かである。だが、そこで復興されるべきものが、震災前のシステムへのそのままでの回帰で あってよいはずがない。
天皇アキヒトは、今回の震災にあたって「ビデオメッセージ」をマスメディアを通して流し、関東の避難所を皮切りに、東北三県の被災地をまわって、被災者の 「慰問」と死者の「鎮魂」をおこなってみせた。そしてそれを歓迎し、その姿に「感激」する地元の人たちの映像が、繰り返し流された。
政治家が現地を「慰問」しても、冷やかにしか迎えられないというのに、天皇・皇族がこのように歓迎され、あるいは、こぞって歓迎されているとしか報じられ ないのはなぜなのか。天皇は、憲法上、国家のひとつの機関にしかすぎない。しかし、それは現実の政治から超越し、非政治的で文化的な、そしてある種「高 貴」な存在であるとまったく無根拠に信じられている。天皇家に最大限の敬語を使ってその行動を報じるマスメディアも、人びとの感覚をまた無意識のうちに組 織していく。天皇の行為は、それが天皇の行為である限り、批判や疑問の声など始めから存在しないかのように扱われる。ただただ、ありがたく気高い「無私」 の行為として賛美されるだけだ。
天皇のこうした行為は、しかし、そのようなものであることによって、現実の政治のひどさを隠蔽し、抽象的で漠とした「日本」なるものの共同性に、被災者を ふたたび包摂・回収していく行為にしかなりえない。そのことによって、人びとの具体的な悲しみや怒りは心の深い部分に押し込められ、そして大文字の「日 本」は、無傷のままで回復されるのだ。
この意味で、われわれは、8月15日の天皇の「おことば」なるものに注目せざるを得ない。
この日、毎年行われる「全国戦没者追悼式」において発せられる天皇の「おことば」は、一貫して「かつての戦争」の死者に思いを馳せ、彼らの「尊い犠牲」に よって、現在の日本の「繁栄」が築かれたのだというロジックで貫かれてきた。もちろん、戦争の死者たちは、敗戦ののちの復興を念じて死んだはずがないのだ から、こうした立論は欺瞞である。しかしそれだけではない。3・11以後の現実は、そうした戦後日本の「繁栄」なるものが、いかに現実の悲惨を覆い隠した 砂上のものにすぎなかったかということを、露骨に示してしまった。すでに「戦後の繁栄」など、無条件に謳い上げることはできないのだ。そのとき、アキヒト 天皇は、どのような新たなことばを発しうるのか。
「震災復興援助における自衛隊の活躍」が喧伝されている。天皇の被災地慰問において自衛隊機が使われていることも、もはや隠されることはない。天皇と自衛 隊が、この「危機」にあってフルに稼働しているかのようだ。しかし、被災地に入った自衛隊員にも死者は出ている。さらに原発事故はいまだに継続しているの であり、それを収束させるためだけでも、さらに多くの人びとの生命を危険に晒さざるを得ない。 重層的下請け構造のもとで、原発関連の労働者の生命は序列化され、過酷な被曝労働に追いやられていく層は、今後も確実に増加していくだろう。原発事故は、 「お国のための尊い犠牲」を要求せざるを得ないシステムなのだ。こうした、新たに生み出される「犠牲」をも、震災後の「復興」のための礎として、天皇は、 顕彰することばを吐くことになるのか。
もちろん、その全てにほおかむりをし、過去の戦争の死は過去のこととして、現在と切断して語ることもできるだろう。しかし、そうであるなら、過去の戦争で死んだ彼らは、なんのための死者として称揚されることになるのだろうか。
しらじらしくも、天皇のことばが従前通りのものであったとしても、この夏に向けて死とその「意味づけ」をめぐる政治的な言説は大きく展開されていくはずで ある。われわれは、こうした新たに生じるであろう言論状況をも繰り込みつつ、国家による、あらゆる死に対する意味づけを核とした、8・15の「追悼空 間」=全国戦没者追悼式と靖国思想――新しい国立の無宗教の追悼施設、あるいは千鳥ヶ淵拡充という方向性も含めて――の解体に向けた行動に、今年も取り組 んでいきたい。実行委員会への多くの方々の参加と賛同、そして協働を強く訴える。
国家による「慰霊・追悼」を許すな!8・15反「靖国」行動
http://815action.blogspot.com/